2023年春

3月に入った頃から日中の気温はぐんぐん上がり続け、3月も末の今日はTシャツに薄手のスウェットで外出しても全然寒くないほど気温が高くなった。もう完全に春だね。夜になるとまだ冷えるからストーブは焚くけど、日中日差しが出ていれば部屋の中は暖かい。
今年の冬は寒かったから、夜に台所の換気扇の下までタバコを吸いに行く時にも覚悟が必要だったのがもうずいぶん昔の事みたいだ。暖かいのは本当に楽だ。




先週末くらいまではなんとか滑れたらしいんだけど、今シーズンは早めにシーズンオフにしたスノーボード。3月に入ってからは親戚に不幸があったりして週末に用事がある事も多かったし、天気が悪かったり色々タイミングが合わず、もういいかなって。
春のシャバ雪はそれはそれで楽しいらしいんだけど、今年も経験しなかったな。まあまた来年楽しませてもらいましょう。

なんかSNS経由で、知人がスノボでコケて十数箇所も骨折したって話を目にしてしまったのも悪かった。大層飛ばす人だってのは聞いてたんだけど、意識がない状態で救急搬送された割にはSNSでの続報の書きっぷりがどうもね、、、。見たくないもの見てしまってなんだか白けてしまったというか。
同じ趣味を楽しむ者がすべて似たようなマインドを持つなんて甘い考えは持ってないし、それこそ色んな人がいるのが世の中なんだって話なんだけどね。

些細なことで気持ちが左右される僕の豆腐メンタルも通常営業の様です。




毎年この時期は入れ替わりになるんだね、バイクには乗り始めた。と言っても諸事情で手元にあるのがET3だけだからSRにもFXRにも乗ってないけど。早く家の工事終わるといいな。見た感じ3月中には終わりそうだけど。




先週かな、花巻にあるイギリス海岸に行ってきた。海岸といってもそこは北上川の岸で、命名は宮沢賢治。どうもここイギリスのドーバー海峡に似ているらしく、そこから名付けられたらしいんだけど、雪解け水が多いこの時期はこの場所の特徴であるらしい泥岩層が全く見えず、ただ水流の多い北上川が流れているだけだった。レストハウス的な建物も閉まっていたし、見るには季節があるみたい。




ET3は若干クラッチが滑り気味だけど(もうこの状態何年も続いてるから今年こそ直したい)絶好調で、まあ風を切って走る気持ち良さは他のバイクと変わらない。やっぱりバイクも面白い。
でも今年になって感じるのは、だいぶ慣れてきちゃったなあって事。なんだろう?走っていてもっとたくさん刺激やインスピレーションを受け取ってもいいかなって思うんだけど、感受性が鈍っているのか毎回走るたびに感動してるのかって言われるとそうでもない。別に飽きた訳じゃ全然ないんだけど、やはり3月に入ってから再開したウォーキングの方が気分転換にはずっといい、と書けば言いたい事が何となく伝わるかな。

去年末辺りからメンタルの調子あまり良くないから、単純に受け取り手の問題なのかも知れないけど。




軽く倒してしまって曲がっていた右のウィンカーを付け直した。てっきりベースのプラスチックが割れているものと思っていたけど、バラしてみたらマウントの鉄板が少し曲がっているだけだった。ラッキー。

ヤレた車体はこういう部分がちゃんとしてないとただボロく見えてしまうんだな。




珍しくキリ番も撮影。普段めんどくさくてこんな事しないんだけどね。




昨日は家の近くを流れる梁川を遡ってみた。初めて走ったけど川沿いになかなか気持ちのいい道路が、スクーターに丁度いいサイズで続いていた。道中雰囲気ある河原を発見。今度焚き火しに来よう。炎を見ながらチルったら絶対気持ちいい場所だ。




まだ少し寒いかな、4月末辺りがいいかな。




愛着障害。
この言葉を知ったのは年明けだったと思う。文字を見た瞬間にピンときてセルフチェックをしてみると不安型愛着傷害の傾向が強いという事が分かった。それで愛着研究の第一人者らしい著者のこの本を早速購入して夜な夜な噛み締めるように読んでいたのが1月2月。

人は誰しも多かれ少なかれそれぞれに問題を抱えているものだと思うけど、僕の場合はやはり愛着の問題が一番大きいんだな、という事に改めて気付かされた。
家を出る前に毎日苦しんだ元妻のモラハラが地獄のように辛かったのにもきちんと理由が付いたね。傷口に四六時中塩を塗り込まれていたみたいなものだったのだから。

改めて、というのは、僕はこの言葉がある事やこういう傾向を持つ人が少なからずいる事を知らなかっただけで、取るべき対策や距離を置くべき関係など、今まで自分で変えようとしてきた事はほとんど全て的を射ていたという事が分かって少し驚いている。薄々自分でも気づいていたというか、自分の大切な部分は客観視出来ていたんだね。そしてその対策もきちんと取っていた。これは自分を褒めてあげてもいいかも知れない。

でも、物心がついた時から感じていた拠り所のなさや漠然とした寂しさ、不安感にはちゃんと名前があって、同じような心を抱えている人が少なからずいるという事を知ったのは経験としてはなかなかだったな。ほっとしたというか、気が抜けたというか。
マインドの面での出来事としては間違いなくここ数年で一番の大事件だった。

障害と言われると少し構えてしまうかも知れないけど、愛着障害自体は病気の類いではない。なかなか説明が難しいんだけど(この本の中でもきちんした言葉で定義はされていない)、心の拠り所のなさを漠然と抱えている状態というか、もっと有り体に書くと「強めの寂しがり屋」くらいの方が案外伝わるのかも知れない。そういう「傾向」に付けられた名前が愛着障害というもの、という事だ。ひとつの概念とも言えるのかも。




愛着障害は病気ではないと書いたけど、愛着の問題が原因になって身体や精神、その人の人生に影響を及ぼす事は多々あるらしい。例えば非行に走った若者を調べてみると愛着に問題を抱えているケースがとても多いのだとか。
リアルな事で最近話題のマンガ「地元最高!」にもそういう描写があるね。この本を読む前だったら見逃していたコマだったな。

それ自体は病気ではないけど、万病の元になる可能性のある傾向、という事だね。

だし、過去を振り返ってみると、今思うと愛着に問題を抱えていたであろう人の顔をすぐに何人か思い出すことが出来るから、確かにそんなに珍しい傾向ではなさそうだ。
僕だって子供の頃からそういう傾向を抱えながらも何とか五体満足でこの歳まで生きて来られた訳だしね。していないけれども、そういう傾向があるという事を悲観しなくても良いね。



さて。
自分の心の傾向を客観視出来たところで、今後どうやって生きていくかを考えないといけない。何もしないでぼーっとそんな事をあれこれ考えたのが3月。
件の本にも書いてあったけど、落ち着いた愛着を持つ事が一番なんだって。でも愛着って結局人間関係だからね、出来るだけ努力はするけど、残りの決して長くない人生でそんなにしっかりとした愛着を得られる保証はないんだよな。
低い可能性に振り回されるのならば、それにこだわらず自分自身を変える努力をする方が確実なのかなって思い始めている。というか、変えられるのは自分だけだしね。
そんなに感じる必要のない不安なのかも知れないしね、仕事はうまく行ってるし、そんなに多くはないけれど友達もいるし、その中には僕を親友と呼んでくれる奴もいる。生きていく上で特に何か問題がある訳じゃないんだよね。

解決しないまま共生していく覚悟を持つのがもしかしたら一番近道なのかも知れない。






そんな七面倒くさい事を考えて疲れた時はこんな抜けた音楽を聴いてリフレッシュ。ジャクソン・ブラウンいいなー。ギターは先日鬼籍に入ったデヴィッド・リンドレー。
アメリカの音楽が好きなのは、たまにこういう抜けるような青空を想起させてくれる音に出会えるから。文字通り気が晴れる。








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