暦の上ではディセンバー

もう聞き飽きたと思うし、僕も書き飽きた。でも書かずにはいられない。
12月だってよー。それも1/3を過ぎたよー。2021年ももうすぐ終わるよー。早い。早過ぎる。

そんな師走の記録です。




これは実は先月の事なんだけど、初滑りをしてきた。どうも山の方で大雪が降ったようで、気の早いゲレンデがオープンしたのを聞きつけた友達が「滑りに行かない?」と連絡をくれたので行ってきました。
今日現在では岩手県内では安比と夏油が滑れるけど、今週末には主だったゲレンデがほとんどオープンする。

友達からLINEが来たのが前日の夜だったので心の準備も何もなかったが、ボードの滑走面には去年塗ったワックスが残っていたので滑れるな、と判断。速攻寝て次の日早起きして夏油まで行ってきた。
バタバタとしたシーズンインだったな。




雪質は流石に若干重かったが、ブッシュなど全然出ていない積雪量。さすが夏油高原。ゲレンデは綺麗に圧雪されているし平日だったもんでガラガラに空いていたしで、絶景を眺めながらシーズンインを堪能してきました。




ゲレンデの状態も良かったからだと思うんだけど、昨シーズンの最後の方と比べても遜色ない滑りが出来てる。一緒に行った友達は結構上手いんだけど「どう?オレちゃんと滑れてる??」と聞けば、まあ普通に滑れているよ、と。そうだよなあ、自分でも乗れてる感あるもん。

これ、絶対夏場にスケボーに乗ってたからだと思う。絶対にそうだ。足をビンディングでボードに固定しないフリーフットの状態で練習したからこんなに自然に滑れるんだ。
多分、体幹が鍛えられたのと、上半身の使い方が身に付いたんだと思う。全身で板をコントロール出来るようになったのかな、変に下半身だけ疲れる事も無くなった。
これは本当に自分でもびっくりした。夏の間のブランクどころか、下手したら昨シーズンよりも上手くなっている。ほえー。

僕レベルのスノーボード初心者の方がもし読んでいらっしゃって、スノーボードに伸び悩んでいるならばスケボーに乗ればいいと思う。滅茶苦茶いい練習になる。ロンスケももちろんいいけど、僕に関しては普通のストリート用のスケボーで簡単なトリック(チックタックとかエンドウォークとか)の練習をしたのが効いている気がする。
フリーフットで不安定極まりないスケボーの上にって、乗っているだけでもの凄く身体を使うのね、ちょっとの体重移動でも短いボードはあらぬ方向に動き出すし、その上でバランス取っているだけで結構な運動量になる。
そうやって、時にはすっ転びながらやった練習が報われたんだ。感無量。

さて、今シーズンも楽しみますか。




実は今、空いた時間にアルバイトをしている。バイトって言っても収入は二の次三の次で、昔の仲間が運転代行の仕事をやっているんだけど、相方が急に辞めてしまって困っている、と連絡が来て。運転代行って一人では出来ない仕事だし、いやーこの時期に働けないのとか本っ当ーに個人事業主仲間として辛さが身につまされてね、本業に差し支えない範囲で良ければ手伝いますよ、と返事したって訳です。

流石に客車は嫌なので、仕事はバカ話をしながら追っかけの車両を運転するだけなんだけど、労働の対価、時給は900円也。一晩6時間運転して仕事の終わりに手にするお給金は5400円。お金を稼ぐ事の大変さをこの歳になって改めて学び直しました。まあそもそもこの仕事を引き受けた時点ではギャランティの話は一切聞かなかったんだけどね。

仕事が終わると、送ってもらいがてら家の近所のコンビニに寄ってもらう。そこで買う一本の缶ビールの美味さよ。尊いねえ。本業が終わってから更に手伝いをする訳だから身体的には結構キツいんだけど、こんなに旨いビールが飲めるんだから、まあいっか、なのです。




実はまた旅をしてきた。
大学の学生寮で知り合った仲間、ずうっと東京で働いていたんだけど、20数年働いて初めて転勤になって。その先が新潟なんだよね。その連絡が来た時「そっか、前より近くなったしそのうち飲もうよ」って話をした。
こういう場合の「そのうち」は往々にして永遠に来ない。でもその友達は違った。この日とこの日は都合どう?と速攻連絡してきた。おお、これはマジな奴だ、本気には本気で返さなきゃならない。
当時仲が良かった仲間は5人いて、一人は盛岡に、一人は兵庫に住んでいる。ひとりだけ山形に残った奴にホスト役を頼んで早速ささやかな同窓会をセッティング。

兵庫から来る奴は、離婚して子供育ててるから金が心細いみたいで。んじゃオレが仙台空港まで迎えに行くから、って事で、家の近所に住んでいる友達と盛岡をステップワゴンに乗って発ったのが4日のAM7:30。兵庫を空港でピックアップして3人で山形に向かう。




昼飯、何食う?山形っつったら蕎麦だけど、と見え透いた水を向けたら、兵庫が「丸五そばにしない?」と。流石分かっていらっしゃる。
丸五そばとは大盛りで有名な山形の蕎麦屋で、とにかく金がなくいつも腹をすかしていた僕達の胃袋を満たしてくれた思い出の店。当時はとても天ぷらなんて付けられなかったけどね、この辺は大人の財力で。
水を切り過ぎていて、箸でつまむと全部持ち上がる蕎麦も変わってなかったな。




その後、懐かしのキャンパスを探索。30年の時が流れている筈なんだけど変わってなかったな。




そう、僕は故・遠藤ミチロウさんの後輩なんです。ミチロウさん、在学中に講演?に来てくれたんだけど、それが開かれたのもこの小白川キャンパス。
開いてたら学食で追い飯しても良かったんだけど、土曜日だから閉まってた。残念。




大学の周りも探索する。僕達が知り合った学生寮も、ほぼ当時のまま現存していた。窓から見えるベニヤ製の衣装ケースも驚くべき事に当時のままだった。二階の左端の奴、誰かが酔っ払ってぶん殴った穴が開いているはずだ。




僕は山形に行ったら是非確認したい事がひとつあった。寮の近くに、「ミュージック昭和」という屋号の、CD屋兼楽器屋兼レンタルスタジオをやっている店があったんだけど(CD屋にも楽器屋にもスタジオにも大変お世話になった)、そこが現存しているかどうか、現存しているとしたら屋号はどうなっているか、だ。
時は経ち、好むと好まざるとに関わらず既に元号は令和なのである。僕達は確かに昭和生まれだけど、僕が若い頃に明治時代から営業している「ミュージック明治」があったらそれはそれで衝撃だっただろうと思う。それと同じ事だからねー。





はい、現存してました。
ここで若かりし頃の僕は、安月給を節約して月に数万円分のCDを買っていたのだ。それが今もって僕の音楽に触れる上でのベースになっている。
楽器も買ったなあ、在庫のMOONのレゲエマスターが売れずにある日値段下がったの、どうしても欲しくてね。確か7万円ちょっとだったと思う、その額も払えなくて月1万円づつの分割で払って買ったんだった。金がない時期に売ってしまったんだけど今でも後悔している。




18時スタートの同窓会という名の飲み会は楽しかった。当時からボス格だった新潟から来た新潟は相変わらずタフでいい男だったし、兵庫から来た兵庫は辛かったであろう離婚を経ても相変わらず優しかった。山形が地元じゃないのに卒業後もひとり山形に残った山形は今や数百人規模の事業所の取締役だし、今朝盛岡を一緒に出発した盛岡は今もってペシミスティックなチョンガーだ。
僕はといえば、新潟曰く「お前は今もオンリーワンだな」と。褒め言葉として受け取っておいた。

仙台空港で兵庫と合流した後の車内で、なあ、山形が未だにタバコを吸い続けているかどうか握らないか?とふたりに持ち掛けた。世の中的にも業界的にも厳しそうじゃん?って。その賭けは全員が吸い続けている方にベットして流れたんだけど、数年前に大病を患った新潟は流石にやめているだろうというこれまた全員一致のベットは全員が外した。




全員で店の外にある灰皿の前でタバコを吹かす。煙を吐き出そうと空を見上げたら、いかにもその土地らしい湿った雪が降っていた。
ちなみに山形は吸い続けているのみならず、タバコの銘柄も変えていなかった。




山形は出来る男なので、3次会の会場まで予約したのだとか。事前に「オレ次の日も運転だから、飲めてAM2:00までだぞ」と釘を刺して置いたにも関わらず気付いたらAM2:30。僕の鋼の肝臓がなかったら兵庫も盛岡も家に帰れなかったな。
また飲もうな、と別れ、次の日兵庫を仙台空港まで送っていく。そして盛岡とふたりで岩手にバック。走行距離は2日で600km。今度のもいい旅でした。




さて師走です、悔いのない様全力で走りましょう。




iPhoneのミュージックで曲をシャッフルで流していると、イントロが始まった瞬間にうおっとなる曲がある。僕にとってはこの曲なんかもそう。
それこそミュージック昭和で買ったCDだよね、Sugerって’90年代のバンドの、The Act We Actって曲。

まずタイトルがカッコいい。actって単語が2回使われてるけど、ひとつは行為という意味の名詞、ひとつは行うって意味の動詞。歌詞にも頻繁にweという人称が出てくるんだけど、それは断絶という裏打ちの元に使われているのもストイックでいい。この辺は明らかに’80sのパンクロックの流れだよね。
ソングライターのヴォーカルギター、ボブ・モウルドはこのバンドを結成する前はハスカー・ドゥというハードコアバンドで活躍していた。

今でこそLGBTQなどと言って、性的マイノリティの権利が社会的に認められつつあるけど、ボブは当時すでに自身がゲイである事をカミングアウトしていた。30年前、芸術の世界では同性愛者である事を公にする人は少なくはなかったけど、それでも自分が異端者である事を口にするのは欧米ですら容易なことではなかったと思う。そんな姿勢に勇気をもらったりしたっけなあ。

音楽的な話をすれば、このバンドはいわゆる「エモコア」の走りなんだと思う。歌詞カードを眺めながら爆音で聴くと良く分かる。歌詞めっちゃエモいよ。
このアルバムが’92年、ジミー・イート・ワールドがアルバム「Clarity」でそのスタイルを確立したのが’99年。30年後の今だってこのバンドに直接的/間接的に影響を受けたであろう音はたまに耳にする。Suger、早かったよなあ。


なーんてね、頭でっかちのロックヲタだった当時の僕は、こんな話を友達と延々と、飽きずにしていたんだよな。懐かしい場所を訪れたらそういうの思い出しちゃった。






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