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Category: 徒然草 (page 1 of 4)

つがいの小鳥

人気のない山の中に通るまっすぐな道、肌で感じる暖かくて新しい風。僕の住む岩手県にも遅い春がようやくやってきた。
岩手の冬は長くて厳しい。だから、継続して続けていた事をたくさん、冬の時期に中断せざるを得ないんだよね。バイク、スケボー、ランニングetcetc…
でも冬には冬の楽しみ方があって、僕もスノーボードを(ほんの少しだけ)嗜むんだけど、ここ3年くらいゲレンデに行ってない。冬の期間は仕事が忙しく、それでも昔は疲れた身体に鞭を打って滑ってたんだけど、体力も落ちているんだろうな、最近は休みの日は身体を休める為だけに使っていた。今年の冬なんてそうでもしなければ仕事に向かう集中力をとてもじゃないけど維持出来ない位忙しかったしね。
まあこの生活環境はまもなく見直す予定なので、そうしたらまた滑りに行けるかな。

まあそんな訳で、晴れた休日にはベスパでSRで走り回っております。画像は先週かな?八幡平方面に走りに行った時のもの。気持ちよかったなあ。

 

その日のブランチは八幡平市大更の老舗、丸初食堂。前から行ってみたかったんだけどようやく行けた。
走りに行く時は昼前にベッドを出てからなので、どうしても食事と絡めたコース取りになってしまう。まあただただ走り回るよりは目的地があった方が走りやすいってのもあるんだけどね。

 

チャーシューメンを頂きました。素朴な味。厚切りなれどホクホクに柔らかいチャーシューは絶品。
が、その時お店にいた僕以外のお客さんは全員味噌ラーメンを食べてた。そっちの方が人気なのかな。次行った時は是非味噌ラーメンを食べよう。

 

 

前にも書いた通り、お袋が今までの住まい(僕の、いわゆる実家でもあった)を引き払い、交通の便のいいマンションに引っ越した。
卒業証書やら学校の通知表やら、処分しにくいものを結構な数、僕の家に持ってきたんだけど、その荷物の中に入っていた一枚の写真。
見た瞬間に「うわぁ」と声が出た。

 

純真無垢なふたりの子供とグレた父親。

 

写真の日付は2007年の大晦日。10年前だね。実家の近くの沼にて。心も暮らしも一番荒れてた頃だね。荒んでたなあ、今思い返しても。
これ撮ったの、死んだ親父なんだよね。この日妻は仕事で別行動だったのを覚えているので間違いない。
シャッターを押す心境も複雑だっただろうなあ、なんて思いもよぎる。でもスナップ写真が好きだった親父が撮っただけあって、なんというか、我が家の親子の関係性みたいなものが見事に写し出された、なかなか奥行きのある写真だ(「いい写真」とは僕には言えないけど)。思わず見入ってしまった。

 

 

ふたりの兄妹は、小さかったこの頃からつがいの小鳥のようにとても仲がよかったんだけど、それは今もって変わっていない。
息子はこの年になるまで(きっとこれからも)、妹に対して手を上げるどころか声を荒げた事もないと思う。優しい男だからね、とても。外出から帰った時に、家にいるはずの妹が居ないと「あれ?あの人はどこに行ったの?」と、ほぼ必ず聞いてくる。

娘は娘で、そんな優しいお兄ちゃんが大好きで、息子の愛情を全身にまっすぐに受けてこの歳まで大きくなった。「私の尊敬する人」という題目が与えられた作文に書くのは当然兄の事だ。
先日、息子は語学研修と名打つ学校の行事で2週間ほど海外に行っていたんだけど、ツンデレ気味に寂しがっていたのが笑えた。こんなに長く離れた事なかったからね。

そして研修を終えて帰宅して、妻が作っていた豚汁を野暮ったい仕草で食べる兄を、頬杖をつきながらテーブルの反対側から眺める娘の眼が、少女マンガの登場人物みたいにキラキラしているのを僕は見逃さなかった。

こんな感じね。

 

 

少し前の話だけど、晩の食卓の席で息子が突然「俺はサラリーマンにはなりたくない、第一次産業に関わる仕事がしたい」と宣言して家族を唸らせた。
良く話を聞くと、息子が言うサラリーマンとは、人と関わって仕事を進めていく職種を指しているようで、要は、それよりは自然や動植物と主に関わる仕事がしたい、という事のようだ。
息子のパーソナリティを考えるとそれは本人にとても合っていて、おう、頑張ればいいじゃない、なんて返事したんだけど。第一次産業ってとても大事な仕事だしね。

我が家の子供達は、ビシっとスーツを着込んでタフなネゴシエーションをビシバシこなす企業戦士、みたいな父親は知らないからね。知っているのは、髪を伸ばし、バイクに乗ってたまにギターをぽろぽろと弾き、夜になるといつも酔っ払っている正体不明の野良人間の姿だ。
そんな父親像が、息子の将来の目標に多少なりとも影響したのなら父親冥利に尽きるけどね。教師にしろ反面教師にしろ、ね。

 

好きに生きればいいんだよ、人生なんて。自分の考えた通りに。
万人になんて愛されなくてもいいし、光るところなんてひとつあればいい。あとはそれを大事に磨き込めばいいんだ。
というかむしろ、積極的にやりたいことをやって好き勝手に生き散らかして欲しいな、と思う。ロクな父親じゃなかったかも知れないけど、今はそういうの受け止めてあげる位の度量は持っているつもりだしね。だし、自分の残りの人生全部使ってでもそれをサポートしてあげたいとも思うし。

なんて事を、10年前に親父がシャッターを押した写真を見ながら考えた。

 

 

…なんか、もっと違う感じで書きたかったんだけど、昨日、となりの国であった歴史に残る出来事を、仕事中だったもんでTwitterのTLに流れてくる画像と動画で眺めながら書いてたらなんかおかしなテンションになっちゃって。変に感傷的な文章になっちゃった。
今の気持ちを表現する事を誰かが書いた曲に託すなら、この曲以外に考えられない。「時代は変わる」。そう。少しずつかも知れないけど、確実に時代は変わっていく。
数年前に国会前に行った時も頭の中ではこの曲が流れてたのを覚えている。あの時からも少しは変わったと思う。時代も、自分自身も。

今回の出来事が、より多くの人にとっての幸せを導く事を願っています。割と真剣に。

 

 

 

 

 

Twenty-Seven

ものすごく久しぶりにバイク雑誌なんてものを買った。
お世話になっているバイク屋さんがお店のblog記事を書いてて。Street Bikers’さん、20周年なんだって。
今日び紙媒体を20年も続けるって凄いよね、僕が昔愛読していた別冊モーターサイクリスト(とてもいい雑誌だった)も2年前に休刊したみたいだし、これだけバイクが売れない売れないと騒がれている時勢に。

雑誌の内容は、流石に僕が毎月定期で購読するような内容ではないんだけど(趣味の問題)、それでも周年の企画で編集の方が各々書かれていたコラム的な文章はとても面白かった。
何年も続けていればそりゃ自分にとってバイクとは何ぞや?なんて事を考える時間はたくさんあるのだろうし、しかもそれを20年も、だから。言葉にも重みがありました。

ちなみに画像は特別付録のルイスレザー製のキーホルダー。とても雑誌の付録とは思えないクオリティの造り。

 

そう、20年なのである。20年前、僕は何をしていたかというと、27歳だった。
…え?27歳??27歳!そう、27歳だったのだ。だったんだなーって、店主が書いたblogを読みながらしみじみと思い出した。本当にしみじみと。

 

27歳がある種の人間にとっては特別な年齢であるという事を、昔とあるSNSで書いた事がある。当時あれこれ考える時間だけは沢山あったから、SNSというある種閉じられた空間に由なし事を色々書いたうちのひとつ。
tDiaryでblogを運営していた頃に転載した事はあったんだけど、それ今読めないからね、いい機会なのでここにまた転載する事にする。

 

 

— 

 

 

…もう10年以上前の事になるのかなあ。思い出したくもないから敢えて数えないけど、ある4月の朝、普段新聞なんて読まないオレは珍しく朝食を食いながら新聞を眺めてた。

社会面の下の方、ホントにちいさな記事だったけど、御丁寧に写真入りで、読売新聞は報じてた。

「ロックのコバーンさん、自殺」

ったく、いつもそうだ、普段新聞なんて読まない癖に、たまに読むとこういう憂鬱な記事にブチ当たる。じゃがたらのアケミの訃報も、戸川純の自殺未遂も全部新聞で読んだ。
ニュースなんてクソ面白くない、見たくもない…

 

当時、ロック界は、オルタネイティブ・ロックとかグランジとかと称される、ラウドでソリッドなロックがシーンを席巻していた。その頂点にいたのが、左利きのギタリスト、カート・コバーン率いるNIRVANA。
そのバンドのリーダーの突然の訃報に、ロック界はテンプラ鍋をひっくり返した様な大騒ぎになった。

カートの死についての個人的感想はここでは書かないけど、当時まだ多感なるロック青年だったオレは、暫くして出回った、雑誌の特集をくまなく読んだのだった。当時、インターネットなんて無かったからね、雑誌って大きなメディアだったのよ。

…某R誌の、オレの大好きなライターが、キレた文章を書いてた。略して曰く「ジミ・ヘンドリクスも、ジャニス・ジョプリンも、ジム・モリスンも27歳で死んだ、そして先日、カートも27でこの世を去った。27歳というのは、『人が死ぬ季節』なのかも知れない」。

 

ふうん、そうなんだ。まあ、願掛けの類とか、風水とか、全然信用しないオレだけど、大好きなミュージシャンの突然の死に直面したショックもあったのか、「27歳」という年齢が、自然に心に刻まれた。

 

…その年の年末、大学を留年する事が決まってたオレは、友達が立ち上げた、運転代行の仕事を手伝っていた。クルマも3台しかない小さな会社だったけど、年末だったし、仕事は忙しかった。
ある日、オレは、酷く酔っぱらったオッサンのクルマを運んだ。オッサンは、オレに行き先だけを告げると、すやすやと寝息を立て始めた。

 

…沈黙の中、山形の雪道を、静かにクルマを走らせる。

 

と、眠っていた筈のオッサンが突然口を開いた。

オッサン「おう、兄ちゃん、お前、歳幾つだ?」
オレ「え、オレっすか?22っす」
オッサン「そうか… 男はなあ、27までに自分の一生を決めなければならねえんだ」
オレ「(…ハァ?)」

ふとオッサンの方を見ると、シートを深く倒して、眼は閉じたままだ。
寝ぼけているのか?いや、口調はやけにはっきりしている。

ちょっとビビるオレを尻目に、尚もオッサンは続ける。曰く、
「人間には誰しも無限の可能性がある、そしてその可能性を試す価値は十分にある、でもな、深追いし過ぎると、一生を棒に振る事もある、そのタイムリミットは27歳だ、だから男は27までに一生を決めなければならない」。
ひとしきり話し終えると、オッサンはまた寝息を立て始めた。

 

…また27かよ…身体に震えが来たのは、山形の夜が酷く冷えたからだけじゃなかった。

 

翌年、学校を半ば追い出されるようにようやく卒業したオレは、ロクに就職活動もしないで、クルマの整備工場に勤める。
クルマが死ぬ程好きだったし、何よりも、ネクタイを絞めて働くのが死ぬ程嫌だった。カウンターカルチャーにどっぷり浸かった青春を過ごしたオレには、「皆と同じスーツを着てネクタイを絞める」という行為は、死刑宣告に等しかった。心酔してたポール・ウェラーが言うように「ミスター・ノーマル」にはなりたくなかった、どうしても。

親には勘当され、安月給で朝から晩までのハードな肉体労働。仕事の合間を見て、バンド活動。生活費以外のわずかな金は全部CD代とギターのローンに消えた。エアコンどころか、網戸も無いようなボロアパートに住んで。
それでも楽しかった。好きなものに囲まれて、好きな事をやる生活。充実してたなあ。

…でもね、そんな密月はいつまでも続かなかった。ちょっとしたいざこざに巻き込まれ、バンドは解散、勤めてた会社は左前、おまけにでっかい失恋も同時に経験しちゃったオレは、「大人」になる決意をする。潮時だよ、その時はそんな風に思ったのを覚えてる。

髪を切り、実家に頭を下げて帰り、一年間、猛勉強。見事、世間体のいい「マトモな」仕事に就く。
妹とスーツを買いに行って、フィッティングして貰ってる自分の姿を鏡で見た時「そういやオレ、今年で27歳だったわ」って思い出した。

 

…「大人」の生活、ってのも、悪く無かった。給料は安定してるし、楽だったね、色んな意味で。まあ、大人の世界の汚ねえ部分もたっぷり見せつけられたりしたけど、いい社会勉強だったね、今になって思えば。当時は随分嫌な思いもしたけどね。

でもさ、上手く大人になれなかったんだね、オレは。死に切れなかった。簡単に言えば、刺激の無いルーティンな毎日に嫌気が差し、丁度家庭面のタイミングもいい方に合ったのかな、8年勤めた職場、辞めちゃった。

 

…性なのか、御里なのか。27で死に切れなかったオレは、今日もコンビニの灰皿の前で独りタバコをふかす訳です。
こうやって振り返ってみると、色んな思いが交錯するけど、まあロック的なハイスピード・ライフはオレには似合わんしね、山形のオッサンには機会があったら謝りたいけど。忠告生かせずごめんね、って。

 

それでもさ、27で死んで行ったミュージシャン達よりも、40歳過ぎても曲書き続けてる人の方が好きだから、オレは。

 

「いい曲」、書きたいな、って、思うよ、オレも。これから何があるか分からないけどね、いい生き方したいよ。
なんて、微妙に前向きな今日この頃です。

長文失礼。

 

 

— 

 

 

以上転載終わり。句読点の位置その他ほんの少しだけ修正しました。
これ僕が37歳の時に書いた文章なんだけど、今も心持ちは変わってないな、と思う。そしてこういう過程を経て僕の今がある。事実としてね。
定点観測的に自分でも定期的に読み直したい文章です。

 

 

カートは、自分と自分の周りとの距離感を上手く掴めなかったのかな、と思う。繊細な人だったんだろうな。
思う事は色々あるんだけど、死後20年以上たった今でも気の利いた事書けなさそう。
今日の仕事が終わったら久しぶりに聴きながら酒飲もう。

 

 

 

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四十九日

 

日曜日に、父の四十九日の法要のために家族で仙台に行ってきた。

 

 

…ほぼ実名でWeb上に日記的な文章を書き始めてからもう20年ちかくになるけど、書き始めてからずっと心に引っ掛かっていたのが「肉親に不幸があった時に何を書けばいいのか?」という事だった。
軽々しく書きたくもないし、そもそも軽くなんて書けないし、かと言って今まで書いてきたものは全てWeb上に記す僕の人生のログだから事に触れない訳にはいかないし(これは悩んだんだけど、父親の死についてこの場所で全く触れない事は僕には出来なかった)。かと言って訳知り顔で何やら悟ったような教訓めいた事を書くのも嫌だった。
そうやって心の片隅にやりたくない宿題のように答えを出すのを棚上げしながら何年もの間キーボードを叩いてきたのだけれど、問題の回答を思いつく前に提出期限が(思っていたよりもずっと早く)来てしまった。
父が亡くなってからの忙しさの合間合間に「どうしようどうしよう」と考えてはいたのだけれど、結局これといった答えも見つからず。

 

という訳で、今もって何を書いたらいいのか分からないんだけど、何か書かない事には気持ちの整理もつかなさそうなのでとにかく書く事にする。

 

 

生前の父は、実際の僕を知っている人からは想像も出来ないだろう人柄だった。巨人・大鵬・卵焼きを好み、取りあえず大樹の陰によっておけばオッケー、みたいな。取っている新聞は読売、ニュースはNHKしか観ない。そんな感じ。僕とはまるで正反対。
超がつく程真面目な勤め人だったから。50年以上現役で、第一線で働き続けた。そんな人となりも父なりの処世術の賜物ではあったのだろう、そう考えると本当に身も心も仕事に捧げていたんだなあと今更ながらに思う。
そしてそうやって僕たち家族を父なりに大事に大事に守ったんだなあという事に思い至ったのは、というか、そういう視点を僕が持てるようになったのは僕が 四十にもなろうとする時で。遅いよなあ。

父が不器用だったのは、前述のような価値観が唯一無二であると確信するあまり、僕たち子供(僕には姉と妹がいる)に接する時に他の視点を認められなかったところなんだろう。子供たちを愛するが余り。
他のきょうだいはいざ知らず、僕は父に負けずに不器用だったから、自分の頭で物事を考えるようになってからは父とはよくぶつかった。
本当にお互い不器用だったと今思い直しても思う。不器用同士まっすぐに相対するものだからぶつからないわけにいかない。もっと他のやり方もあっただろうと今になれば思えるのだけど、当時の僕たちふたりにはそんな余裕はなかったのだ。

 

かくして父子の間には十数年の不遇の時が過ぎるのだけど、それでも父はこの出来の悪い息子を見限らなかったからね、最後まで。有難い事に。僕は僕で自分でも多少余裕が出来てきたのだろう、昔なら腹を立てたであろう父の言動を受け入れたり受け流したり出来るようになった。粋がったりびびったりしながら散々やりたい放題やったしね。もういいや、って位。
少しは孝行しないとな、という思いもあって、だからここ数年は無駄に衝突する事もなく穏やかに過ごしていた、と思う。たまに二人で大酒飲んでした言い争いはご愛嬌だね、最後の一年くらいはそんな言い争いも無かった。心底分かり合えないまでも、お互い違うことは認められる。そんな感じ。

 

 

父が晩年緩和ケアをして頂いていた病院のすぐ脇には七北田川が流れていて、そこに掛かる橋の上からはいつも眺めている岩手山とは違う、頂上が尖った泉ヶ岳が見えた。
そこで亡くなった父は、冷たくなって長年住んだ実家に運ばれてきた。その夜に、父が生前大好きだった酒を綿棒に含ませて飲ませてやっていたら何だか泣けてきて、覚えていないくらい何年か振りで声を上げて泣いた。

 

本当に不器用な人だったと思う。そして僕はまぎれもなくそんな父の息子なんだ。この文章を書きながら改めて思うけどお互い様だったと思う、今までふたりが交わった時間も出来事も何もかも。
それでも今、そんな父の息子であった事に感謝できるって事は、変な言い方だけど父に感謝しなければいけないなあとも思う。
死は誰にでも訪れるものなのだろうけど、もう少しゆっくり一緒に酒を飲みたかった。

 

 

 

 

 

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